※※※ 立春 ※※※
節分の翌日は立春と呼ばれています。
二十四節季の立春の最初の日です。
春が来たことを告げる日、暦上の春が始まる日。
また、立春は次の二十四節季「雨水」の前日までを指します。
開始時刻は国立天文台の観測により「太陽横径が315度になった瞬間が属する日」です
2023年の立春は2月4日から2月18日までを指します。
・二十四節季
二十四節季は太陽が動く道である黄道を24等分して名称を付けたものです。季節を知るために用いられます。立春は二十四節季の最初の節季です。
立春は太陽が黄経315度の位置に来た日とされており
・重要視されていた季節の節目
春分、立夏、立秋、立冬と四つの季節の節季がありますが、室町時代(1338年~1573年)頃から立春の前日の節分を特に重要視するようになりました。
春の始まり=1年の始まり、春は命の始まり、1年の豊作や豊漁を祈るなど各地でいろいろな形での祭りの日とされています。また節分行事の豆まきや追儺など現代にも引き継がれています。
節分の翌日が立春と呼ばれるようになり江戸時代には庶民にも一般的になっていました。
・節分
平安時代の追儺(つい な・のう)が源流となっています。
追儺は中国の大儺(たいな)の風習を取り入れたものとされています。
大儺は周時代(紀元前1100年頃)にはすでに「周礼(しゅらい:儒教経典の一つ、紀元前11世紀に周公旦が書いたといわれるが偽書の疑いも)」に詳しい記載がみられます。
当時は立春の前だけでなく、立秋・立冬前日にも行われていました。漢時代には立冬の追儺だけが残り・1年の終わりに疫や鬼を追い払い、新年を迎えるという意味となったようです。
・参考
◇ 異界が口を開けるとき: 来訪神のコスモロジー (関西大学東西学術研究所研究叢刊) 単行本 – 2010/3/25
非日常の異界は、祭りの時に開かれ、その時空から先祖霊や神、妖怪が登場する。本書では、ヨーロッパと日本を中心に、祭りの中に継承されてきた来訪神信仰の構造を包括的に考察した。それを踏まえ、現代の来訪神信仰が商業的にデフォルメされ、本質的意義が消滅している問題と、現代社会の病根が繋がっていることを指摘した。
「大儺」はどのように行われたか
「大儺」「追儺」はどのような儀式だったのでしょうか。大宝律令に書かれていますのでみてみましょう。
· 大晦日の夜に、紫宸殿(内裏の正殿で天皇元服や立太子礼、譲国の儀、節会などの儀式が行われた)で大儺を行った
· 黄金の四つ目がある仮面を被り熊の皮を身につけた方相氏(ほうそうし)という役が、右手に持った鉾で、左手に持った楯を3回打ち鳴らし、その音が合図となって臣下の者たちが四方に別れて弓と矢(桃の木と葦で出来ていたと言われる)で、目に見えない疫鬼を追い払う
というものだったようです。この様子は中国で行われていた「大儺」を簡略したもののようで、同じ儀式だったことが伺えます。
またこの儀式は京都の平安神宮で、時代考証に基づいて再現されています。節分の時期に行われる平安神宮節分行事「大儺之儀(だいなのぎ)」がそれにあたります。非常に見応えがあります。
http://www.heianjingu.or.jp/index.html
「大儺」の儺は難、両面宿儺も儺
「大儺」の儺という文字は元々は「難」の漢字が中国では使われていたようです。しかし徐々に「儺」に変わっていき、それに伴い儺にも「厄祓い」の意味が備わっていきました。「儺」という字は、「人偏」と「難」で構成され「人」は火、「難」は旱魃、落雷、山火事などの災難を表しています。この「儺」という字そのものが「人が火で、悪鬼を祓う災難よけの行事」になるのです。
この儺という字は「両面宿儺」の中にも入っています。
両面宿儺は仁徳天皇の時代に現れたという鬼神です。一つの胴体に二つの顔と8本の手足があり力が強く非常に素早く、日本書紀の中では人々から物を奪う悪漢であった為、難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)に退治された、となっています。しかし日本書紀以外では「救国を行った」「高沢山の毒龍を制伏した」といった伝承が多く、朝廷の権力に抗った地方の豪族だったという説も。近年ではアニメ「呪術廻戦」で人気がでた両面宿儺、彼もまた悪鬼を祓う存在だったので儺という漢字が使われたのかもしれません。
方相氏と四つ目
「中国神話伝説大辞典」という本に方相氏のことが出ています。
開路神の前身で、疫鬼(えきき)を駆逐する官。方相氏は疫鬼を追い払う古代の画像神で、棺を送るにも用い、後世のいわゆる開路神、険道神(先導神)にほかならない。黄帝の第一妃の螺祖(らそ)が周遊の途中で死すぬと、第二妃の嫫母(ぼぼ)を召して守らせたため、嫫母を方相氏とした。おそらく嫫母は姿が醜く、疫鬼を追い払う神に似ていたので、このような伝承が生まれたのであろう。
中国神話伝説大辞典 p623より
嫫母が醜かったということで「嫫母は黄帝のときにはきわめて醜い女であった。錘(おもり)のような額、戚(おの)のような鼻で、体が大きく、色が黒かった。今の魌頭(きとう)〔大儺(たいだ)でかぶる鬼面〕はその名残」とまで書かれています。ただこの文章だけで見ると「四つ目」ではなさそうに感じますね。方相氏は元々は二つ目だったが、熊の頭がついた毛皮をかぶっていたため「熊の目と本物の目」が一体化して四つ目のように見えたことから四つ目になったという話もあります。
儺面と能面
この大儺の儀式の時に被る仮面のことを中国では「儺面」と呼びます。また鬼神の登場する仮面劇を「儺戯」と呼んでいます。室町時代から続く京都の吉田神社では節分祭で追儺を行います。もちろん四つ目の方相氏が出てきます。彼は四つの目で四方=四至をにらむことができたとされます。
http://www.yoshidajinja.com/setubunsai.htm
この吉田神社節分祭の追儺では儺のことを「ノウ」と発音します。また中国でも儺は「ノウ」です。故実叢書(有職故実に関する典籍・図版の集大成)でも追儺で 「のう のう のう」 と言うとされています。この追儺の儺面は「ノウメン」と発音され、日本では能面へと変化していったのではないか、ともされています。このことに関して、京都大学の研究報告がガチガチにフィールドワークされていて、本当に読み応えがありましたので、是非お読みください。このサイトを読むよりも節分の起源や由来がよくわかります。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/87717/1/dyn00009_120.pdf
鬼になってしまった方相氏
これまでの方相氏はずっと災厄を追い払う方の鬼神でしたが、現代の豆まきは方相氏は鬼となって追い払われています。いったいいつから方相氏の立場が悪い鬼へと変わったのでしょうか。慶雲三年=706年に初めて出てきた大儺ですが、これはそのまま全国的な普及はないものの宮中行事として平安後期まで行われています。しかし平安後期の政治家・学者である大江匡房の「江家次第」(1100年に大江匡房がなくなるまで書かれた)では「殿上人於長橋内射方相」とあり、方相氏が殿上人に長橋から射られる=追い払われる鬼の役目になっていることが伺えます。方相氏は平安時代に「疫病や厄を祓う鬼神」から「疫病や厄を蔓延らせるので追い払われる鬼」なってしまったのです。このことにはいくつか理由があるようです。
· 四つ目に熊の皮という異形が方相氏を鬼とした
· 方相氏は「あの世への先導神」の役目もあり「死への穢れ」が鬼へと変えた
· 疫病というケガレと同一視されるようになった
·
方相氏はその異形な姿、疫病を寄せ付けない=疫病そのもの、死者を墓所へと先導する、ということから鬼そのものになったんですね〜。この方相氏の変遷については名古屋大の論文が詳しいです。
https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/bugai/kokugen/nichigen/issue/pdf/5/5-03.pdf
節分の意味
大晦日に行われた大儺はなぜ節分に行われるようになったのかについて。節分の源流である大儺は中国では3回行われていました。三月(季春)と八月(仲秋)と十二月(季冬)です。しかし中国でも十二月(季冬)の大儺だけが重要視されるようになりました。周時代(紀元前1100年頃)は太陰暦で、今の太陽太陰暦(グレゴリウス暦)とは全く違い、月の満ち欠けによって月日の流れを決めていました。新月の日〜満月の日までを一ヶ月としていたのです。太陰暦の大晦日は現在の立春、すなわち冬から春に変わる時になります。冬から春に転じるとき疫病や悪鬼が出ないように古い年を追い出して、新年を迎えていました。(日本では少なくなりましたが、中華圏では春節という旧正月がお正月行事になります。)
徐々に節分行事を現在の立春の前日に行う方向へとシフトさせた、というのが現代では有力な説になっています。ただし、宮中行事としての追儺は節分と別に存在し続けました。江戸の初めまでは行っていたようです。また寺社の存在も関わっているようです。宮中行事から民間へと広まる時、新年の説法などをお寺で行いその時に一緒に追儺の行事も行うようになりました。そこから民間信仰に合わせて立春の前日である節分に豆まきや鬼やらいを信徒と共に行ったのではないかとも言われています。室町時代には「鬼は外、福は内」の掛け声や豆まきをしていたようで、この頃には寺社の行事として形が整っていたのでしょう。江戸時代に入ると、宮中行事は衰えましたが今度は民間で豆を撒く節分が定着しました。疫病を祓うものから「魔除けと福を取り込む」行事へと変遷したのです。
節分、なぜやるのか
現代の節分は「悪い鬼を追い払って豆をまく」という感じになっていますが、本来は「平安時代から続く疫病を祓うために大晦日に行われた儀式」であり「新しい一年を迎える年取りの儀式」「悪鬼を祓い疫を追い出す」という意味があったのです。
長らく宮中行事だった「追儺(ついな)」は室町時代以降は豆をまいて悪鬼を追い出す行事へと発展し、民間にも定着していきました。京都ではこの時期、表鬼門にあたる「吉田神社」と裏鬼門にあたる「壬生寺(みぶでら)」の節分祭がことに有名で、厄除節分会の期間中は大勢の人でごったがえします。
※ 二十四節気
二十四節気とは、1年を太陽の動きに合わせて24等分して、それぞれの季節に名称を与えた昔の呼び方で、現在でも季節の節目などを示す言葉として使われています。
名称 かな 説明 月日
小寒 しょうかん 寒さがますます厳しくなる頃 01月06日
大寒 だいかん 最も寒さの厳しい頃 01月20日
節分 せつぶん 季節の分かれ目 02月03日
立春 りっしゅん 暦の上で春が始まる日 02月04日
雨水 うすい 雪から雨に変わる頃 02月19日
啓蟄 けいちつ 虫が冬眠から目覚める頃 03月06日
彼岸 ひがん 春分の前後7日間 03月18日
春分 しゅんぶん 昼と夜の長さがだいたい等しくなる頃 03月21日
清明 せいめい 清々しい青空が広がる頃 04月05日
穀雨 こくう 穀物を潤す春の雨の降る頃 04月20日
八十八夜 はちじゅうはちや 立春から数えて88日目 05月02日
立夏 りっか 暦の上で夏が始まる日 05月06日
小満 しょうまん 木々が青々しく万物の成長する頃 05月21日
芒種 ぼうしゅ 穀物の種巻きをする頃 06月06日
入梅 にゅうばい 梅雨の季節に入る頃 06月11日
夏至 げし 一年で最も昼が長い日 06月21日
半夏生 はんげしょう 半夏という薬草が生える頃 07月02日
小暑 しょうしょ 暑さが本格的になっていく頃 07月07日
大暑 たいしょ 最も暑さの厳しい頃 07月23日
土用 どよう 四立の前の約18日間 07月30日
立秋 りっしゅう 暦の上で秋が始まる日 08月08日
処暑 しょしょ 暑さが落ち着き始める頃 08月23日
二百十日 にひゃくとおか 立春から210日目の日 09月01日
白露 はくろ 草花に朝露がつき始める頃 09月08日
彼岸 ひがん 秋分の前後7日間 09月20日
秋分 しゅうぶん 昼と夜の長さがだいたい等しくなる頃 09月23日
寒露 かんろ 野草に冷たい露がつく頃 10月08日
土用 どよう 四立の前の約18日間 10月21日
霜降 そうこう 露が凍って霜が降りる頃 10月24日
立冬 りっとう 暦の上で冬が始まる日 11月07日
小雪 しょうせつ 小雪がちらつき始める頃 11月22日
大雪 たいせつ 雪が激しく降り始める頃 12月07日
冬至 とうじ 一年で昼が最も短い日 12月22日